次元−折りたたみ?

われながら、下手な絵を・・しかし、次元のことは、少し重要かもしれないですね。三次元「空間」というくらいで、私たちはフツー三次元の空間に生息しているということになっていますよね?。
この三次元は、二次元の次段階だから、フツーは1次元+2次元プラス奥行きで3次元と数えていくものを、逆にたどることが出来るならば、私たちは時間をコントロールできるのでは?と、誰でも考え付くのだろうけど?ワタシも考えました。三次元空間から二次元へ。二次元から三次元へ。出たり入ったり。時間が飛び出てきたり引っ込んだり。二次元をそーっとめくって奥行きを作り始めたと思ったら、固いつぼみが花開くように時間がふわっと漂いはじめる・・次元って、なんかロマンチックですね。
ちなみに、時間には方向はないとワタシは思います。

無−次元


「無」というものを、思い切って、がんばって頑張って、想像してみる。そこからスタートして(でも、無に、位置座標があるわけないから、「そこ」というのもおかしいのかも?)一次元から三次元までを書いてみる。いま問題にしている時間はこれのどこにあるだろうか?正確には、どこからあるだろうか?
無にはそれこそ何にも無いわけだから(と、言い切ってしまっていいのか?)時間もないだろうね・・ありそうなのは(時間が始まりそうなのは)二次元から三次元が生まれる瞬間からのような気がする。
空間が時間も伴って生まれるのではないかと思う。だから、世界と時間は同義なんていってしまったのかもしれない。しかし、いま、それを同義とは考えないで行こうと思う。なるたけなるたけ時間だけを考えてみよう。

存在ー無

昨日、つい『「わたし」という現象』などという言葉使いをしてしまったのですが、「わたし」とは何か?などを言いはじめると、それは、どうも、違う方へ行ってしまいそうな気がするのです。(あくまでも、気がするだけという曖昧な論拠ですが)それは、時間とはなにかと問おているわたしとはなにか?それを言っているわたしとはだれ?と、ブログに書いているこのiMacの前のおっちゃんはだれ?みたいな事になってしまいそうで時間の無駄だし、考える事でもないような・・えーと、こういうの「観念論」というのですか・・?
で、この、”iMacの前のおっちゃん”はどりあえず、おいといて、意識しないでいきます。
時間とは?と云おうとする時、まず、分かりたいのは(そして分からないのは)「そのはじめはなに?あるの?」という事でしょうか?。時間のはじまり・・時間はいつから流れはじめたのか?
あれ、やはり、こう書くと、それは「世界のはじまりは?」と言っているようで落ち着きませんが・・・

時間の中の存在

それが、「わたし」という現象なのだろうか?少し考えてみると、「ワタシ」と「時間」と「世界」は、同じ物、同じ事象をいう別の言葉だけのような気がしてくる。それでは、ワタシは
どこへ行けばいいのだろうか?とにかく生きている限りは進みたい。それは亀の鈍重さでもいい。ウサギには追い越されてもアキレスには追い越されないらしいし・・
冗談はともかく、ここを一歩として、「時間とは何か」を探す旅に出てみたいと思う。使いたくとも難しい言葉は出ないし、とうにわかりきっている事柄を、うだうだこねるだけのことになるのかも知れない。けれどワタシはそれでも、考え、立ち止まり、もどり、休み、怠けながらも、とにかく旅立ってみたいと今、思う。
それが、いまのワタシができる、それだけのことであっても、それでも良しとしようと思う。
では、また、(よろしければ)少しでも、おつきあいください。
これが、タイトル『私が〜について知っている・・・』の由来です。余談ですがゴダールの映画はタイトルがみなよいですね・・

診察-5

その心療クリニックに行きはじめてから一年が経とうとしていた。医師の眼も眼鏡のむこうに見えるようになっていた。男には希望はまだ無かったが、そのかわり絶望も無かった。いつまたあの頃に捕われた不安、隔絶感、朝の絶望に見舞われるかはわからない。しかし男にはどこかしら、もうあれほどの寂寥感や孤独はこないような気が、何故かしてくるのだった。それがたとえ男が飲み続けている薬剤の効果に過ぎないとしても。男には分かっている。人は生き続ける動物だ。人はせつない生き物だ。内蔵器官は果てしなく危うく未完成なままだし、生体を司るべき脳はすぐに騙される。人が乗る地球という惑星自体が、だいたいこの先どうなっていくのかの万全な確証は無い。しかし、男は分かっていた。人はそれでも生き続ける。その先には確実に死があるからだ。死があるからこそ生きられるという反語も言えるだろう。その中での意味。その中にある意図。その中にある実態は実は、空虚なものなのかもしれない。人が生きるのに意味の無い事、それこそが実は人生の意味なのかもしれないと、男は思う。政治も空虚なものだし経済自体に実体はない。そんな事は夙に人は分かっていた事なのだろう。男は今やっと気がつく事が出来たに過ぎない。みな、それぞれの役割を演じている。あるいは役割がこの世ではないようなフリをしている。朝の満員電車からおりる苦悩したサラリーマンなど、実はこの世にはいないのだ。言葉の無い詩人がいないように。仕事を失う事、預金通帳の残高がなくなる事、友人に見放され、あるいは恋人に去られる事、すべては「架空に」出来上がったこの「世の中」という名の装置に仕組まれたひとつのエピソードに過ぎないのだった。男は今、分かる。未来に希望など無い。その代わりに絶望という状態も存在しない。すべてはこの、壊れやすく騙されやすい脳の中に仕組まれたシナプスの反応が起っているだけのものなのだ。
男は急に何か試したくなる。自分という名の装置の数値評価ともいうのか、自我の拠り所なのか、意識の不在証明なのかそれは分からない。敢えて言うのならばそれは一遍の「詩」のようなものだ。それを男は希求していた。それが男の欲望でもあった。
やっと男はPCの前に座る。そしてキーボードを打ちはじめる。

・・・この「世の中」が、何で動いているのか?なにでうごかされているのか・・・

未来はまだ無い。未来はまだ「そこ」にあるままだ。

久我山・M'

「最近なんか変なんだ」ぽつりぽつりと話しはじめる。ぼくはときどき自分の事を言語障害かと、半分本気で思うことがある。なに、なにかあったの?ーー以前からへんじゃない、とまぜっかえされるかと思っていたぼくは少しほっとする。近くの喫茶店に入った。あのさ、ときどき記憶がなくなるんだ。このまえ友達に確かに本を借りたと思ったのに、実はそんな事はなかったかもしれないとか、以前確かにヤマハカセットデッキを買ったはずなのに、ある日部屋のどこを探してもそんなの見つからないとか。
ーーそれって、記憶がなくなるっていうより、たんに物覚えが悪いってだけじゃないの?やはり、そういうふうに言うか?かの女もほかの子と同じなんだろうか・・そう思うと少しがっかりする。ぼくが生まれてきてからこの世の中はどれだけの時間が過ぎていったんだろう。そしてこれからいったいどれだけの時間が過ぎるのだろう。静かな住宅街のなかにぽつりとあるその喫茶店のなかで、ぼんやりと考える。時間という貯金はいったいいくらくらいあるのか?それがお金では買えない程の貴重な物とはまだ当時のぼくは実感していなかった。

糀谷・Sさん

トウキョウにもまだこんなところがあるんだね。空港まで行く各駅停車のモノレールを降りて、おもわず彼女に呟いた。そこは下町そのものの風情を醸し出している町だった。駅まで迎えにくると彼女がいった意味が分かる。はじめての訪問者は道に迷うしかないだろう。路地から路地を同じような長屋が続き、やっと彼女の家に着いた。コートを脱ぐと半纏に袖を通す。彼女の動作は自然なものだった。このまえF君とNさんのとこにいったよ。ぼくは話す。あら、そう。それ、いつごろ?えーっと、一週間くらい前かな・・いや2週間経ったかも知れないし、ひょっとするともう一ヶ月近いかもしれない。ぼくの答えに彼女はあきれる。なんて時間の感覚がない人なの。そのくらい覚えてないの?そういわれてぼくはもっと一生懸命その日を思い出そうとするが、やはり上手く行かない。過ぎた時間はどうやらぼくのなかではすべて(過去)というくくりに入ってしまうらしい。だから2歳半の頃の金盥の水の表面張力の膜も、小学生の頃の団地に円盤!が降りてきた事も、田んぼのヌカルミに落っこちた事もみんな(昨日)と同じ部類の事柄なんだと思う。少なくてもぼくの(記憶)装置の中では、それらはシーケンシャルに並んでなどいないみたいだ・・・