診察-5

その心療クリニックに行きはじめてから一年が経とうとしていた。医師の眼も眼鏡のむこうに見えるようになっていた。男には希望はまだ無かったが、そのかわり絶望も無かった。いつまたあの頃に捕われた不安、隔絶感、朝の絶望に見舞われるかはわからない。しかし男にはどこかしら、もうあれほどの寂寥感や孤独はこないような気が、何故かしてくるのだった。それがたとえ男が飲み続けている薬剤の効果に過ぎないとしても。男には分かっている。人は生き続ける動物だ。人はせつない生き物だ。内蔵器官は果てしなく危うく未完成なままだし、生体を司るべき脳はすぐに騙される。人が乗る地球という惑星自体が、だいたいこの先どうなっていくのかの万全な確証は無い。しかし、男は分かっていた。人はそれでも生き続ける。その先には確実に死があるからだ。死があるからこそ生きられるという反語も言えるだろう。その中での意味。その中にある意図。その中にある実態は実は、空虚なものなのかもしれない。人が生きるのに意味の無い事、それこそが実は人生の意味なのかもしれないと、男は思う。政治も空虚なものだし経済自体に実体はない。そんな事は夙に人は分かっていた事なのだろう。男は今やっと気がつく事が出来たに過ぎない。みな、それぞれの役割を演じている。あるいは役割がこの世ではないようなフリをしている。朝の満員電車からおりる苦悩したサラリーマンなど、実はこの世にはいないのだ。言葉の無い詩人がいないように。仕事を失う事、預金通帳の残高がなくなる事、友人に見放され、あるいは恋人に去られる事、すべては「架空に」出来上がったこの「世の中」という名の装置に仕組まれたひとつのエピソードに過ぎないのだった。男は今、分かる。未来に希望など無い。その代わりに絶望という状態も存在しない。すべてはこの、壊れやすく騙されやすい脳の中に仕組まれたシナプスの反応が起っているだけのものなのだ。
男は急に何か試したくなる。自分という名の装置の数値評価ともいうのか、自我の拠り所なのか、意識の不在証明なのかそれは分からない。敢えて言うのならばそれは一遍の「詩」のようなものだ。それを男は希求していた。それが男の欲望でもあった。
やっと男はPCの前に座る。そしてキーボードを打ちはじめる。

・・・この「世の中」が、何で動いているのか?なにでうごかされているのか・・・

未来はまだ無い。未来はまだ「そこ」にあるままだ。