向こうから駈けてきた

都内でも有数の大きなターミナルのあるその駅は週末の約束をした男女と家族連れや様々な年齢構成のグループでごった返していた。11月に入ったというのに上着を着ていると汗ばむような陽気の昼過ぎに約束の時間を大幅に遅れてその雑踏の中から突然彼女は現れる。もっとも二人がそれぞれ別の場所でそれぞれ別の環境で過ごしてきた永い年月から比べれば全く取るに足らない時間しか待ってはいなかったのだが。眼のまわりにはうっすらとファンデーションがきらめきそれにあわせて自然な色合いに唇が染められている。「まるで雪国から来たきたみたい」と彼女がはにかむように下を向くとそこには嵩張るフェイクファーがついたぼてっとしたブーツ(それは長靴と呼ぶ方がふさわしかったが)に細い足首がかくれている。数えきれないくらいたくさんの色がちりばめられたワンピース(しかし香水はつけられていない)に黒いタートルの薄手のスェーター。短めにカットされた黒い髪につんと上を向く鼻先があいかわらずの小振りな顔。スェーターのうえには慎ましやかに虹色に光る細いネックチェーンが揺れている。どんな魔法があればこうして彼女とまた会うことができたのか。こういうことをあるいは天の配剤というのか。いつどうやってこの日のこの時間この場所で会うことを二人は取り決めたのかその瞬間にすべてが忘却された。はるか昔TVでみたスパイが指令を受け取ったとたんに消滅するカセットテープのようなものだ。「いそがしくて朝から水しか口にしていないのよ」と言う彼女は南口のビルに古くからあるパスタ屋でリングイネを素早く口におしこむ。私鉄特急の終着駅からついさっきこちらに駈けてきた彼女はいま外の雑踏をさけてはいったこのひっそりとした店のなかにしつらえられたテーブルのすぐ向こうでまだパスタを頬張っている。こちらはただそれを見ている。ただただそれを飽きずに見ている。彼女の左手薬指にはほそい指にあわせた細い指輪がつけられていた。