止まり木

スペイン語のメニューをみて上の行から順番に頼むことにする。丸の内に近い映画館のはす向かいにひっそりと看板を掲げていた居酒屋。店の半分はビールを立ち飲みをする外国人で占められていたが壁際にうまく空席があった。近況でもなく家族のことでもなくふたりが出会った四半世紀以上前の学生街のことでもなく供されたグラスワインをがぶ飲みにちかいのみ方で呑む。話題を探す気遣いは不要だったし不意な沈黙が気まずいほどの他人でもなくそれ以上に親密さもない。少なくとも同期でも同僚でも幼なじみでもなくさりとて「むかし付き合っていた」というような訳ありでさえなかった。つまりふたりは「何でもなく」と同時に「何でもあり」だった。お互いにふたりは相手の姓と名を知っている。どこで生まれどこでいま暮らしどこで働いているのかは知っている。10代の時どんなレコードを聴いたか20代の時どんな彼(あるいは彼女)がいてどんな失恋をしたか知っている。30代の時を知っている。40代の頃も分かっていた。そしていま50代の半ばになろうとしておたがいに「まだ生きている」ことを「実際に会って」確かめようとしただけなのだろう。事実彼女はこう言う「次はおたがいどちらかのお葬式の時かしら」あながち冗談でもない。そのようなペースの付き合い方がはたしてこの時代に成立するのか?いやこのような時代も何もあったものではない。事実ふたりはこうして来たのだ。15歳のお下げ髪と16歳のいがぐり頭のふたりがすぐ隣にいるようだ。