時間が世界に・・

あるいは、世界とは時間のことだという思いで、ここまでふらふら書いてきました。しかし、二次元から三次元に展開するときに時間がたちあがるといったり、無(の近似値)から時間は去来するとか、「流れる」といいながら方向は無いとか、どうしても、これといった「すじみち」を見つけられずにここまで来ています。
しかし、時間とは何か?を答えられるようになれば、明らかにそれは「世界を記述する試み」に他ならないでしょう。時間とは世界の謂いであり、またその逆も真だと思われるのに、ここで立ち止まらざるを得ない状況なのはなんとも残念です。
さて、私たちが生きているこの「実存」のなかで(のみ)時間を考えるのはどうか?と私は思います。かといって、物理学的に時間を追うことはあまりにも荷が重すぎる。しかし、感覚の世界はどうか?それならば、なんとか(もしかしたら)私でもどうにかなるのではないか?
あらためて考えてみると「時間」という題材ほど、どのような方向から考えていっても、それなりに方向性を見出せそうなものはない様な気がします。
一番はじめに私が知りたかったことといえば・・世界は何で出来ているのか?と、いうことでした。世界の成り立ちは何なのか?答えはフリーメーソンかもしれなかったし、ユダヤ教徒の地下組織か、あるいはCIAや薩長同盟の残党かも知れませんでした。しかし、そのうえでなにか(絶対的な)ものがあるのでは?との想像から、生(命)あるものが逃れられない?時間のほとりまで来てみたのです。時間論というにはあまりにも大仰ではありますが、そこを乗り越えることが出来れば、それは「世界を理解し、かつ、支配する」ことにすらなるのでは?と野望にちかい妄想に私は至りました。
最初から挫折は覚悟の上でした。時間の砦はまだまだ厳しく立ちはだかっていますが、諦めるのはまだ早いかも知れません。
時間との戦い。シャレではありますが、時間は誰でもが知っていて、だれもが答えられない謎なのです。
見えないものだからこそ、しかし「真実」はそこに宿るのかもしれないのです。

生きている時間

ついこの前のことなのですが、知人の娘さんの、初めてのお子さんの出産を聞きました。ふつうはそれで「おめでとう」とのことだったのですが、つい先日、そのお子さんの死亡の知らせを聞いてしまいました。生後7ヶ月程のことだったようです。かける言葉もありませんでした。その子(女の子でした)は7ヶ月の命を生きた。そのあいだ、その子にはその子の時間があったはずです。いま、その子の「生」はこの世の現実としてはありません。ということは、その子にとって「時間」は「ない」ということなのでしょうか?しかし、いま「まだ」生きている私たちには「時間」は流れているように見える。今、こうしている瞬間にも時は過ぎているように思えます。しかし、先日いのちの灯し火を消してしまったその子には「時間」はもうない。ないように見える。時間というものの無常な一面をみてしまったように思えます。
生物としての時間。物理的な時間。「絶対(この言葉はあまり使いたくないのですが・・)の時間」が、やはりあるのでしょうか。
『時よとまれ、おまえはかくも美しい・・』という有名なメフィストフェレスの台詞を、つい思い出します。

無のつぎに来るもの

無と無限は実は同じものなのではないかと思います。でもあえて、無についてもう一度考えます。
考えますと言ってはみたものの、「無限については考えるのをやめます」とつい今しがた言ったばかりです。無と無限について同じだと言うのならば、無についても考えられないということです。しかし、考えられない=ワタシの頭では到底追いつきそうもない「無」について、もう一度考えてみることにします。
無とはなにか?答えは小学生でも思いつくこの一言です。
無=なんにもないこと
でも、この数式は少し変ですよね?無=(イコール)むにゃむにゃ うん?むにゃむにゃと言った時点で、無ではないでしょう?いや、もうワタシがここで「無」なんて書いた時点でもう本当には無ではないはずです。つまり、無とは言葉(つまりは「概念?」)では言い表せないものなんだと気がつきます。人が「無」と言葉で考えた時点でもうそれは「無」ではないものを考えているという悪循環に陥ってしまう。悪循環というのがいいすぎならば、メビウスの輪とでも言えばいいのでしょうか。ここで人は抜けられない迷路に入ってしまいそうです。
つまり、『無については本当には考えられない。もし人が敢えて無について言い表すことをしたとしたら、それは、限りなく無には近いが本当の無については言い表したことにはならない。それは、例えば「無についての近似値」である。』
ということになるでしょうか・・
そして、いま、時間について考えているワタシにとってはこれこそが時間を言い表していることなのでは?と、思うのです。
二次元のスクリーンをそっと剥がすように三次元に展開する時、時間が同時に立ち現れる。と、かつて書いてみましたが、今回は追加という形でこのように書いてみようと思います。

『時間は「無」より去来した。その無とは、実は「無の近似値」のことである。』

無と無限

エーテル」とは、またちょっと時代がかった言葉でしたが、時間というものを考えるときに、なにか、そこに介在するものを想像してみたくなるのでした。
しかし、あらためて、なぜ私たちは時間のことを考えたくなるのでしょうか?それは、やはり、有限な存在としての私たちが、時間に対して意識するしないに関わらず、恐怖感を覚えるからでしょうか?
「時間が怖い」それは、私たちが、生の有限さを知っているからですね・・・と、いうことは、やはり時間が分かれば、あるいは、それを乗り越える?ことが出来れば、私たちはその恐怖感を克服できるのでしょうか。時間とは「無」にはなく、「無限」にもない様な気がします。強いていえば、無から無限の「あいだ」に時間は存在しているようです。もっとも、私たちが無限をとらえることは、おおよそ、無理なことのよな気がしていますが・・
おそらくそれは人間の脳では理解できない種類のことなのでは?と思います。
夜空の星を眺めているくらいで、いいのかな?
少なくとも、ワタシの場合は、そのくらいで、無限については考えるのをやめておこうと思います。
しかし、無、無限、どれもが時間を考える時の大切なキー・ワードにはなっていそうなんですが・・・

きのうの「まとめ」への反論(あるいはまとめのまとめ)

1)時間は方向を持たない。といっておきながら、2)時間は折り畳まれる。  というのは、ちょっと考えるとおかしい気がします。方向性が無いものが、紐みたいに折り畳むことなどできるのか、と。しかし、ここでいう「方向性」とは、線分のようなものでは(一本の矢のようなものでは)ありません。しいていえばそれは柔軟な「帯」のようなものですかね・・?その帯(みたいなもの)を、よいしょよいしょ、といって折りたたみもできるのでは(事実、そういう風に考えると説明しやすい事象がこの世には、たくさんありそうな気がします・・。)

3)時間は空間とともに生まれる。  ええ、そう思います。あなたも二次元のスクリーンを想像してみてください。そしてそれをそっとめくってみてください。たちどころにそこに時間が生まれ、そして流れます。

で、まとめると・・『時間とは、エーテルが充満する世界の総体を司る体系軸である』 なんか、19世紀のテツ学者みたいですか?

時間は宇宙のどこまであるのか?ー無限

時間というものを考えるときに、つい、星空を見上げてしまいます。ひとはなぜもっと夜、空を見あげないのか?と、不思議に思う時があります。夜空を眺めるだけで、光る星々の行く末に思いを馳せるだけで、満たされた、贅沢な気持ちになれませんか?
時間を考えるときに、一番必要とするのは、とりもなおさず想像力ではないかと思います。物理ももちろん必要でしょうし、観念的なもの、感覚的なものもあると思います。物理は数学力、感覚には論理力が備わらないといけないのでしょうが、それでもなお、夜に星空を見上げる想いとかが無いようならば、「時間」には関わらない方がよいのでは?といったら、言い過ぎでしょうか。
私たちはどこからきてこれからどこに行くのか・・この答えは、時間のなかにありそうです。時間というものが分かれば、この答えも自ずと分かるのでは・・・と今日思いました。

ここまでを少しまとめます。
1)時間は方向を持たない。
2)時間は折り畳まれる。
3)時間は空間とともに生まれる。

折りたたみの宇宙


時間が折りたたみ出来るのならば、それは宇宙も折りたためる事にならないか?
折りたたみの途中で、うまく重なりが出来なかったりするところが、時空のずれとなるのかな?
ワタシのような手の不器用な宇宙人だって、いそうだもの・・