時間が世界に・・

あるいは、世界とは時間のことだという思いで、ここまでふらふら書いてきました。しかし、二次元から三次元に展開するときに時間がたちあがるといったり、無(の近似値)から時間は去来するとか、「流れる」といいながら方向は無いとか、どうしても、これといった「すじみち」を見つけられずにここまで来ています。
しかし、時間とは何か?を答えられるようになれば、明らかにそれは「世界を記述する試み」に他ならないでしょう。時間とは世界の謂いであり、またその逆も真だと思われるのに、ここで立ち止まらざるを得ない状況なのはなんとも残念です。
さて、私たちが生きているこの「実存」のなかで(のみ)時間を考えるのはどうか?と私は思います。かといって、物理学的に時間を追うことはあまりにも荷が重すぎる。しかし、感覚の世界はどうか?それならば、なんとか(もしかしたら)私でもどうにかなるのではないか?
あらためて考えてみると「時間」という題材ほど、どのような方向から考えていっても、それなりに方向性を見出せそうなものはない様な気がします。
一番はじめに私が知りたかったことといえば・・世界は何で出来ているのか?と、いうことでした。世界の成り立ちは何なのか?答えはフリーメーソンかもしれなかったし、ユダヤ教徒の地下組織か、あるいはCIAや薩長同盟の残党かも知れませんでした。しかし、そのうえでなにか(絶対的な)ものがあるのでは?との想像から、生(命)あるものが逃れられない?時間のほとりまで来てみたのです。時間論というにはあまりにも大仰ではありますが、そこを乗り越えることが出来れば、それは「世界を理解し、かつ、支配する」ことにすらなるのでは?と野望にちかい妄想に私は至りました。
最初から挫折は覚悟の上でした。時間の砦はまだまだ厳しく立ちはだかっていますが、諦めるのはまだ早いかも知れません。
時間との戦い。シャレではありますが、時間は誰でもが知っていて、だれもが答えられない謎なのです。
見えないものだからこそ、しかし「真実」はそこに宿るのかもしれないのです。