無のつぎに来るもの

無と無限は実は同じものなのではないかと思います。でもあえて、無についてもう一度考えます。
考えますと言ってはみたものの、「無限については考えるのをやめます」とつい今しがた言ったばかりです。無と無限について同じだと言うのならば、無についても考えられないということです。しかし、考えられない=ワタシの頭では到底追いつきそうもない「無」について、もう一度考えてみることにします。
無とはなにか?答えは小学生でも思いつくこの一言です。
無=なんにもないこと
でも、この数式は少し変ですよね?無=(イコール)むにゃむにゃ うん?むにゃむにゃと言った時点で、無ではないでしょう?いや、もうワタシがここで「無」なんて書いた時点でもう本当には無ではないはずです。つまり、無とは言葉(つまりは「概念?」)では言い表せないものなんだと気がつきます。人が「無」と言葉で考えた時点でもうそれは「無」ではないものを考えているという悪循環に陥ってしまう。悪循環というのがいいすぎならば、メビウスの輪とでも言えばいいのでしょうか。ここで人は抜けられない迷路に入ってしまいそうです。
つまり、『無については本当には考えられない。もし人が敢えて無について言い表すことをしたとしたら、それは、限りなく無には近いが本当の無については言い表したことにはならない。それは、例えば「無についての近似値」である。』
ということになるでしょうか・・
そして、いま、時間について考えているワタシにとってはこれこそが時間を言い表していることなのでは?と、思うのです。
二次元のスクリーンをそっと剥がすように三次元に展開する時、時間が同時に立ち現れる。と、かつて書いてみましたが、今回は追加という形でこのように書いてみようと思います。

『時間は「無」より去来した。その無とは、実は「無の近似値」のことである。』