江古田・Nさん

西武線はきれいな電車だ。乗るたびにいつもそう思う。しかしNさんのアパートは、カメラ機材と本とキネマ旬報に8ミリ映写機で散らかり、いつ行っても座るところが無い。NさんはN大の芸術学部に行っているはずだが、いつも部屋にいた。今日も8ミリを見せてもらおうとF君と二人で来たところだった。8ミリのモノトーンのフィルムにはNさんが延々と走っている画が記録されている。本棚にかけたスクリーンに映像がコマ落としで映し出される。これも一つの時間を記録する装置だとぼくは思う。時間は誰もが捕まえられない。ただ流れていくのを呆然と眺めているだけだ。それはF君の部屋にあった水で満たされたコップにもあり、この狭い部屋のスクリーンにも在り、そしてこうして無為に過ごす我々にもあるのだろう。しかしその実態はまだ誰にも知られていないのか?あるいは知らないのはぼくだけなんだろうか?
世界は水であれ火であれ空気でも原子でもいい。世界はモノに置き換えて考えられた。しかし時間は(あるいは)モノですら無い。では、時間とはいったい何だというのか?そういっているそばから手のひらからまたこぼれ落ちるように時間が滑り落ちる。