Goodbye

アンダーグラウンド蠍座」の帰りにはコマ劇場裏のビルの地下、「木馬」に行くのが決まりのコースだった。団体客の人ごみをかき分けるようにして一歩裏の路地に入り、ひっそりとした地下に通じる階段をくだると、スポットライトにあてられたガラスケースに納められた無数の時計のコレクションに誰もが最初は驚く。おそらくオーナーの趣味だろうそれらはどれもが止まっており、時刻は分からない。その店がいつ開店し、いつ閉店するのか知っているものはいなかった。「木馬」はいつでも席は空いているように見えたが、いつでも満席のようでもあった。つまり、あまりに広すぎて、店内の暗い照明ではあたりをすべて見回すことはできないのだ。
時を告げることのない、動いていない、夥しい数の時計は当時のなにかの寓意だったのか?しかし、そもそも時計とは時間が存在している事の証明装置なのか・・時間が流れる、とよく人は言うが、そこにある=「存在する」などとは滅多に言わない。
時間があるということは間違いないことなのか?そもそも有史以来、だれか時間を「見た」者はいるのか、だれかそれを捕まえられたのか?見ることも捕まえることもさわることもできない「もの」を、なぜ人は「ある」と無条件にすぐに言えるのか?
『さようなら』と人は言う。別れとは過去に起る事ではないだろう。別れとはつまり常に未来を予測することなのだ。つまり「さようなら」を言うことはその先の未来にもう出会うことは無い事を予見することだろう。しかし、男には「こんにちは」もなく「さようなら」もなかった。男は、今の、この瞬間も、かぎりなくすこし過去にいるだけの様な気がした。つまり過去も未来も現在も男には区別をつける必要が無い様な気がした。