Those Were The Days

1950年にウェールズで彼女は生まれた。中央から分けた長いブロンドの髪に深い瞳と形の良いすらっとした脚、憂いを含んだような仕草は本国でも米国でもヒットチャートを急上昇させた。
大阪の万国博覧会に合わせて来日した彼女のコンサートの様子を映すTVの前の少年は、彼女より5歳年下だった。その容貌は少年を釘付けにさせるには充分のオーラを放っていた。

いますっかり中年となった男は立ち止まる。うごく事も無く立ち尽くしている。足下も暗い。自分が立っている場所も分からず、行くべき方向もまるで見えてこない。「そんな時もあった」と後で言えるようなことになるのだろうか?明日さえ分からないのが・・男にはあたり一切が霧に包まれたような日々が続いていた。現在も無い。まして未来などなかった。あるのはごく限られた過去の「思い出」だけだった。
時間という「実在」がもしあるのなら、それは男にとっては「無」に等しい。しかし無は実在とは言えないのではないか?あるいは無こそ実在の本性なのだろうか?
なぜ、考えるのか?男には白紙の答案用紙しか出せないでいる。