My funny valentine

新宿のアンダーグラウンド蠍座はいつも満員だった。電話で呼び出された男はその入り口で待っているつもりだったが、つぎつぎと吸い込まれるように地下に入っていく観客を見送っているうちに、約束よりも映画の方が気になって中に入ってしまう。名前は覚えていないが見覚えのあるイタリヤの俳優が、ピエロのマスクを被って銀行に押し入る話しが冒頭にあった。小雨の降る中を愛人の迎えにきた車で逃走しようとするところで男の腕がつかまれる。睨むようにこちらをちらとみて狭い席の間をすべり込むようにして彼の女は男の隣にきた。・・・地上に出た時はあたりはすっかり暗くなっていた。男はその日、ポケットにコルトのオートマチックを隠していた。ズボンのふくらみを気にしながら歩く。彼の女はその日なにかを言いにきたのだろうが、男はそういった気配を読めるほど年をかさねてはいなかった。
その後、男が銀行に押し入る事はなかった。やさぐれた街の空気は男にそんな勇気を与えはしなかった。男はそのオートマチックを今でも持っていたが、すっかり錆び付いた弾倉を引き抜く事はもう出来ない。彼の女ともなぜかその日以来連絡が取れなくなっていた。
その拳銃が合金製の偽物な事を、一度も話した事はなかったのだが・・・