Antonio's Song

男が取材用にと渡されたカメラは、上役の引き出しに無造作に仕舞われていたニコンのF1だった。その会社がスポンサーになっているコンサートの取材に行ってこいと、突然に言い渡されて新宿まで来ていた。カメラなどそれまでいじった事がなかった男は、新宿でなじみのコーヒー店の主人にコンサートホール内でステージを撮るのに適切なシャッタースピードと絞りの値だけを聞き出した。ふと見渡すとホールの入り口の階段から、髪を風でくしゃくしゃにした女と、それにつきあうような髪の長い痩せた男とが抱き合うようにしてこちらに向かって降りてくる。女はこのホールで歌う事になっている歌手だとすぐに分かった。男はほとんど何の考えも無く、カメラの練習のつもりで彼らの方へレンズを向けシャッターを押した。カシャという音があたりに響く。カメラにほとんど無知な男はこのカメラは割と良いものなのか、などと思っていたとき、「今のフィルムは渡して頂戴」という声を聞く。気がつくとその女の歌手が男のすぐ前まで来て、尖った声を出していた。あわてたように寄り添っていた隣の男が「カメラの練習していたんでしょう?僕らの方を撮った訳じゃないよね?」と気の弱そうな、しかし、断定するような言い方で、むしろ女の方に言い訳をしているように男に尋ねる。
何の事か分からない振りをした方が良さそうだ、と判断した男は、・・ええそうです、練習してました、そちらのほうは撮っていなかった、あなたたちが誰なのかも知らない、と答える。まだいぶかしげな顔をした女をひくように「さあ、お茶でしょ?」と痩せた男は女にもたれかけられながら向こうへ行ってしまった。
その数十分後、ステージの上でその曲を歌い始めた女の歌手は、最前列でニコンを構えた男を見て、びっくりしたような、裏切られたかのような顔を一瞬だけ見せた。さっき撮られた写真はスクープになるわ、とその顔は言っていた。
しかし、「アントニオはそのような不実な男ではない」とその曲は歌っていた。
そして、男もアントニオの通りにした。