夜と昼と・京急線

働くべき場所を失う事は(当然の事ながら)有り余る時間と引き換えにして、男から仕事を奪う事を意味した。その頃の男の日課は、京急線を品川から終着の三崎口まで乗り続けている事になった。男がかつてずっとしてみたかった「小さな旅」がそれだった。終点の三崎口駅はあっけないくらい小さな何も無い駅だった。駅前でパンを求め、コーヒー牛乳を飲み、辺りをうろついた後、男はまた「帰路」につくのだった。
車窓から見るどこかしら侘しい景観が、その路線の特長だった。黄金町辺りをすぎたあたりから、朝にはみそ汁の煮立つ匂い、昼には焼いた干物の焦げ臭い匂い、夜には焼酎と烏賊をあぶる匂いがした。つまり匂いのする町々が続く路線なのだ。
男はそれが気に入り、毎日のように同じ路線の往復をした。今思えばそういった生活の気配のようなものを、男は無意識にも求めていたのかもしれない。
失ったものが何で、得たものが何だったのか、そのバランスシートは男にはまだ全く未知のものだった。