スピロペントの夏

2週間咳が続いた男は、市販の咳止め薬を飲み続けていた。夜は一本のタオルが救いだった。ひとたび咳が出始めると会話も出来ない数十分が続く。それでもさほど気に留めていなかった男は、昼休みにただの気休めのつもりで市立の総合病院に向かった。書きかけの書類を机にのこしたまま訪れたそこで、男に言い渡されたのは即刻の入院加療だった。
例年になく暑い日が続く7月だった。それでも6人部屋の真上にある古びたエアコンからの冷気は、ベッドに横たわる男の胸を不快にした。点滴が続く単調な入院生活の間に、ただひとつ外界とのつながりを示す窓の向こうには、まぶしいほどの昼の陽光と夜のざわめきがあった。それは文字通り「塀の外」の世界だった。世界はその窓一つで隔たれており、窓の内側は消毒液とほこりの匂いしかしない閉ざされた世界だった。

男は服用を言い渡された数種類の錠薬を言われた通りに飲み下していたが、それは真夏にぽっかりと開いた悪夢の入り口に入り込むのと同義でもあった。男にはその錠剤のなかのどれがその悪夢を男にもたらすのかを知っていた。
仮退院の許可証をもって医師が男の前に現れたのが、あとわずかでも遅かったのなら、男はその錠剤を踏みつぶしていただろう。

その錠剤こそが、しかし、男を快方に向かわせた唯一の効果を発揮したものであるのを担当医師から知らされたのは、かなり後の事だった。