止まり木

スペイン語のメニューをみて上の行から順番に頼むことにする。丸の内に近い映画館のはす向かいにひっそりと看板を掲げていた居酒屋。店の半分はビールを立ち飲みをする外国人で占められていたが壁際にうまく空席があった。近況でもなく家族のことでもなくふたりが出会った四半世紀以上前の学生街のことでもなく供されたグラスワインをがぶ飲みにちかいのみ方で呑む。話題を探す気遣いは不要だったし不意な沈黙が気まずいほどの他人でもなくそれ以上に親密さもない。少なくとも同期でも同僚でも幼なじみでもなくさりとて「むかし付き合っていた」というような訳ありでさえなかった。つまりふたりは「何でもなく」と同時に「何でもあり」だった。お互いにふたりは相手の姓と名を知っている。どこで生まれどこでいま暮らしどこで働いているのかは知っている。10代の時どんなレコードを聴いたか20代の時どんな彼(あるいは彼女)がいてどんな失恋をしたか知っている。30代の時を知っている。40代の頃も分かっていた。そしていま50代の半ばになろうとしておたがいに「まだ生きている」ことを「実際に会って」確かめようとしただけなのだろう。事実彼女はこう言う「次はおたがいどちらかのお葬式の時かしら」あながち冗談でもない。そのようなペースの付き合い方がはたしてこの時代に成立するのか?いやこのような時代も何もあったものではない。事実ふたりはこうして来たのだ。15歳のお下げ髪と16歳のいがぐり頭のふたりがすぐ隣にいるようだ。

「男と女」

「結局紅葉を見るのじゃなくて人を見にきたようなものね」と彼女は言う。なぜか地下鉄で夕暮れの銀座まできたのだった。帰りの時間は大丈夫なのか先ほどから尋ねるのはこっちの役目になっていた。彼女はその都度何も答えずにいる。街灯に灯がともり先ほどの街とは違ったおもむきのネオンが仄めく。たしかにジャズを聴かせる店はあるのだろうがこちらはそのような気の利いた店には縁がない。先ほどからのふたりの微妙な距離を崩さずに歩きつづける。彼女はアヌークエーメに例えてもよいかもしれないがこちらはトランティアニにはほど遠い。途切れとぎれにテーマ曲を頭のなかだけでおもわず口ずさむ。これからどうすればいいのか。どうするのがいいのか。黒いスリップ姿でベッドでももの憂げに煙草をすうアヌークエーメのシーンを急に思い出してしまう。あわててその映像を頭の中でもみ消す。

珈琲屋

中央線の架線故障でダイヤは大幅に乱れているらしい。暗くなる前に帰りたい彼女との奥多摩行きは諦めるしかなかった。自然と歩く先は以前(それこそ何時だったかは覚えていられないくらいの以前だが)にふたりで待ち合わせにつかった「珈琲屋」に向けられた。一つも同じものがないカップとソーサーがいくつも壁際に並べられ女主人に好みを言えばそれに(言わなければかの女の判断で選ばれたカップに)珈琲が注がれてサービスされる店だった。もっともいつもこちらに出されるのは何の変哲もない青磁のシンプルなかたちのものだったが。彼女が「確かこのへん」と見当をつけて入る路地は新しいケームセンターがあり「こっちだったはず」とこちらが行く先はうっすらと見覚えがある建物でも焼肉屋雀荘だった。探すのをあきらめて大きなガードをくぐる。そこだけが全く変わらない佇まいの飲み屋が連なる横町を傍目で見ながら「DIGやDUGはこっちよね」と彼女が先を行く。その二つの店がもう夙になくなっている事実を言い出しかねて後をついていく。どんな田舎町でもこれだけ年月が経てばある程度の変遷はあるだろう。ましてここは都内でも有数の繁華街なのだ。つい2、3年前になじみになりかけた店が来月も同じところに店を構えている保証はない。たしかに限られた愛好家にジャズを聴かせる店よりも極彩色のネオン看板で呼び込みをかける安売り店のほうがこの町には合っているのだろう。たとえそれがすぐに廃れるものだとしてもだれも10年先を考えて生活をしている町ではないのかもしれない。しかし一歩はいる裏通りは別だった。表通りの喧噪からはまったく筋違いのような密やかさのような匂いをかもしだして佇むそれらの「老舗」はあと数時間後に控えた開店までの静寂とともにその存在を示していた。その表通りの書き割り看板のようなビルとそれら裏通りにある遥か以前から同じ名前で営業している店々との距離はどこかいまのふたりの関係=距離を現しているみたいだと考えてみる。近いと言えばそれこそ手を出せば相手の躯に触れられるくらいに近い。しかし遠いと言えば金星と木星の間ぐらい遠い。もっともその二つの惑星の距離を言えるのかと問われれば見当もつかないのだが。

向こうから駈けてきた

都内でも有数の大きなターミナルのあるその駅は週末の約束をした男女と家族連れや様々な年齢構成のグループでごった返していた。11月に入ったというのに上着を着ていると汗ばむような陽気の昼過ぎに約束の時間を大幅に遅れてその雑踏の中から突然彼女は現れる。もっとも二人がそれぞれ別の場所でそれぞれ別の環境で過ごしてきた永い年月から比べれば全く取るに足らない時間しか待ってはいなかったのだが。眼のまわりにはうっすらとファンデーションがきらめきそれにあわせて自然な色合いに唇が染められている。「まるで雪国から来たきたみたい」と彼女がはにかむように下を向くとそこには嵩張るフェイクファーがついたぼてっとしたブーツ(それは長靴と呼ぶ方がふさわしかったが)に細い足首がかくれている。数えきれないくらいたくさんの色がちりばめられたワンピース(しかし香水はつけられていない)に黒いタートルの薄手のスェーター。短めにカットされた黒い髪につんと上を向く鼻先があいかわらずの小振りな顔。スェーターのうえには慎ましやかに虹色に光る細いネックチェーンが揺れている。どんな魔法があればこうして彼女とまた会うことができたのか。こういうことをあるいは天の配剤というのか。いつどうやってこの日のこの時間この場所で会うことを二人は取り決めたのかその瞬間にすべてが忘却された。はるか昔TVでみたスパイが指令を受け取ったとたんに消滅するカセットテープのようなものだ。「いそがしくて朝から水しか口にしていないのよ」と言う彼女は南口のビルに古くからあるパスタ屋でリングイネを素早く口におしこむ。私鉄特急の終着駅からついさっきこちらに駈けてきた彼女はいま外の雑踏をさけてはいったこのひっそりとした店のなかにしつらえられたテーブルのすぐ向こうでまだパスタを頬張っている。こちらはただそれを見ている。ただただそれを飽きずに見ている。彼女の左手薬指にはほそい指にあわせた細い指輪がつけられていた。

大統領はもうニホンにいない

散歩をするのは好きだ。昼頃ようやくベッドから起きだし、朝昼兼帯の食事をし、散歩に出るのはきまって午後の遅い時間。その日課はほぼ守られ、この空白の時間を埋める唯一の持続性のある行為だったと思う。夜にずれ込むこともあり、それはそれで悪くなかった。今日も夜の散歩となった。幸福な時間がそこには保証されているべきだった。しかし今夜のそれは違うものになった。ちょうど自宅へ続く街道に沿うようにして、一見、飛行機雲のように見える「それ」が東西に長く、どこまでも現れていた。しかもちょうど自宅近くの上空でX字のように交わり、しかもその先で大きく二方に枝分かれするように「それ」の筋はつながり合わせて五方向に夜空に横たわっていた。2009年11月15日。千葉県A市上空。午後8時30分。それは確かに大統領がいるときには出来ることではなかったろう。

11月7日

長い夢を見ていたようだった。百あまりの夜に百あまりの朝。「人生に意味はない。あるとすればそれば無意味という意味しかない」と言い、あるいは言い放っておきたかった。砂で造った城が寄せる波に簡単にさらわれるくらいの脆さで、そのような「虚勢」は崩れるのもわかってはいたのだが。少し歳を取りすぎたのかも知れない。もし言い訳リストをつくってみるなら、最初から3番目にそれは書かれそうなことだ。だから、歳などは関係ない。全く関係はない。どのような言い訳があり、たとえどのような無関心さがあっても、人生に意味のないはずはない。まして「無意味という意味」など的外れも良いところだろう。たしかに、いま、15歳の少年の覚醒した気持ちと、75歳の老人が持つ老獪さとを兼ねもっているはずだ。長い夢のようだと最初に言ったが、それは「ようだ」ではなく、実は夢そのものだったのかもしれない。11月7日。何かがはじまり、なにかが確実に終わりを告げた。
過去もない。未来はまだない。つまり「時間」という実体などはどこを探してもない。すべては最初から分かっていたことだったのかもしれない。百の昼と百の夜を過ごし、またこうして夜がやってくる。今日も到着地はまだ見えず、方向も分からず、しかし船は漕ぎださなければならない。港のむこうに見える小高い丘のまだらな灯りのどれかが、きみの休む窓辺であらんことを・・

あきらめるのはまだはやい

そうですね。本当にそう思って(思う様にして)毎日を過ごしています。実は、私は「時間」について考え初めてからというもの、「人生に意味などない。(あるとしたらそれは人生の意味のなさを知った上で、その意味を探すところにこそある)」という考えにとらわれていました。少なくともとらわれそうでした。虚無主義というのですかね、「明るいニヒリズム」の境地にすこし悦に入っていた部分もありました。正直、いまでもその考えを100パーセント捨てているわけではありません。
しかし、ちょっと考えてみると、もし本当に人生(人の生きる)に意味がないのなら、人類は疾うに絶滅していたのではないか?と思い始めました。また個人的なことで恐縮ですが、母が内蔵の病気にかかり、ネットで調べ物をしたときに、人間の中身の精密な図解図のページに行き当たりました。実に人間の中身はうまく(言い方を変えるならば、頼りなくはかなげに)出来ているものなのですね!内蔵ですらそうなのですから、脳の部分に至っては、やはりこれは芸術の域。とても人間が作れるものではない様な仕業が満載です。たとえ明るかろうとも、ニヒリズムに中途半端に浸っているときではない様に、そのとき私は思いました。
時間とは何か?
これからもおそらく「決定的な」答えは出てこない様に思います。しかし、それを無意味とはもういわない。まして、このような人体の作りを持った私たち生命を、無意味といえるはずはない。そう思う様にしました。